毎日の生活の中でふと、
自分はこれでいいんだろうか?
この先自分はどうなっていくんだろうか?
自分にとっての本当の幸せはなんだろうか?
そんなふうに考えてしまうことはないでしょうか?
宮沢賢治の名著「銀河鉄道の夜」には、
何度も「幸せ」「幸い」について主人公たちが考える場面が出てきます。
有名なセリフでは主人公ジョバンニが親友のカンパネルラに向かって、
カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば
僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。
と言う場面があります。
物語の中ではジョバンニとカンパネルラは列車の旅として世界を回っていきますが、
それは私達にとっては長い人生というレールの上での出来事によく似ています。
旅の途中でジョバンニやカンパネルラのように、
自分のすべきことや決心をきちんと決めるような出来事が起こってくれれば、
しっかりとした意志をもって自分の行動を選んでいくことができるでしょう。
ですが、私達は普段の繰り返される生活の中では、
そうそう心の底から何かを決めたりゆくべき方向を定めることができるような出来事に
巡りあうことができません。
「自分探し」という言葉は今や世間一般的に使われる言葉になりましたが、
最近ではちょっとその意味に含まれることが広がり過ぎてしまっている感じがあります。
自分が今おかれている状況は、自分の本来居るべき場所じゃないから他のところへ行く。
自分が本来持っている能力を発揮できる環境ではないから、他の自分を認めてもらえる場所を探す。
そういった「ここではないどこかへ」移動していくという行動だけが
自分探しの一つの行動として肯定されてしまっているようです。
確かに居場所や環境が自分にとって決定的に合わないものであったりして、
窮屈さを日常的に感じるものであるならそれをがらりと変えてみるということもひとつの方法です。
ですが、だからといって環境を変えたことだけで全てのことが自分にとって
都合が良く変わっていってくれるということはほとんどの場合ないでしょう。
大切なのは「いま居る場所」そのものではなく、
その場所で自分が何を見つけ、感じていくかということです。
もし自分探しのために環境を変えたいのであれば、
自分が見つけたいものはどんなものなのかということを一度よく考えてみることが大切です。
自分探しの基本となるのは自分をきちんと見つめなおすという姿勢と、
他人との触れ合いの中でどんなふうに関わりをもっていくかということです。
同じように悩み、考える人と深く付き合っていくことで、
もしかしたらジョバンニとカンパネルラのようにそのヒントが見えてくるかもしれません。